鼻笑を以て心笑と為す

科学史・科学哲学・数学基礎論などに関心を抱く社会不適合系大学生。趣味なし、金なし、友達なし。能力コンプのアスペルガー也。

映画『レ・ミゼラブル』の観賞感想


   大学にほとんど友人のいない私は、最近近くにあるツタヤで映画をレンタルして観賞するのを楽しみにしている。旧作なら一週間でせいぜい160円ほどで借りることができるので、映画館と比べれば安い!自販でペットボトルの清涼飲料水一本買うのと同じ価格でかつての名作を簡単に自宅で楽しめるなんて贅沢じゃないか!

 さて、今日は『レ・ミゼラブル』を観賞した。我が国でも昔から知られており、今日に至っても読み継がれ、その文学的価値を失っていないヴィクトル・ユーゴーの名作とされている。私も小学生のとき、児童向けの『ああ無情』を学校の図書館で借りて読んだことがあるが、それ以来読んでいない作品で、全体の雰囲気ぐらいしか記憶にしていなかった。

  映画での本作品はミュージカルということで、全体を通してセリフのほとんどが曲になっているのは印象的ではあるが、いささかくどいといえばくどいかもしれない。通常の音声のセリフがもう少しあっても良いような気がするが、そこは製作者側のこだわりがあるのだろう。
  舞台はは1815年から スタート。ナポレオンの時代は(ほぼ)終焉を迎え、フランスでは王政が復古し、ヨーロッパでは革命前の状態に復帰しようとする保守反動的なウィーン体制の時代へと突入する。このような時代の下で、貧困と絶望に打ちひしがれる最下層の民衆は何を思うか。
 
 全体を通して、盗みを犯した自分をその温情から擁護して救った司教の愛に改心したジャン・バルジャンを中心として人間ドラマに焦点が当てられているので、当時の詳細な外的な描写というよりは、ジャベール警部との因縁や、身を落としてまで娘を愛したファンテーヌへの彼の慈悲や敬愛と責任感、そしてファンテーヌの娘であるコゼットへの愛情、コゼットと若き青年マリウスとの関係などの描写が基本となっている。個人的には、もう少し当時の社会的な背景・情勢の側面にもピックアップしていると面白いと思うのだが、これは観客の価値観に左右される点であろう。
   
 当時の革命のキーワードとして歴史的な文脈でよく語られるのはナショナリズムである。ナショナリズムには民族主義国民主義国粋主義などさまざまな訳があるが、これらはその革命の主体ごとに応じて訳す必要がある。フランス革命でいえばこれは国民主義と訳され、現代におけるナショナリズムという言葉が持つ極右的・国粋主義なマイナスのイメージとは真逆で、民衆が主体となって自由・平等をスローガンに新たなる社会を切り拓いていかんとする輝かしいイメージが感じられる。ウィーン体制以後も、革命の第一波としてドイツ・ロシア・イタリア・スペインなどで学生らによる蜂起がまず起こるがこれらは鎮圧される。第二波として1830年七月革命が成立して立憲君主制が敷かれるも、結局は制限選挙により、労働者階級の民衆は相変わらず苦難を強いられる(本作の後半は1832年であるから、この時期にあたる)。明日の食べるものにも不自由し、もはや戦場といっても過言ではない日々に生きる最下層の労働者たちに与えられる選択肢は、もはや血みどろの革命しかないのであろうか。史実としてはその後1848年、革命の第三波として二月革命が勃発し、ここにウィーン体制は終焉する。
 
  ディベートなどでもそうだが、やはりこういった、最悪殺すか殺されるか、生きるか死ぬかという切迫した時代において正統性を持つものといえば勝利者であり、「勝てば官軍負ければ賊軍」とは言いえて妙だと改めて認識される。幸か不幸か、歴史として記録された事象に対しては時々、永き時を経て、その「賊軍」の側に肯定的評価が下されることもあるが、当時を生きた人々にとってみれば、自分たちの死後評価されても、といいたくなるであろう(そういう意味では不幸だが、「賊軍」のレッテルが塗り替えられるという意味でせめてもの救いといえよう)。正義とは何ぞやとあれこれ思索に耽っても、正統性を持ったものが正義と規定される、否しかし本当にそれだけならばそのような問いは発生しないーでは基準とは何か?またそのようなものは存在するのか? と、いつまでもわからぬままである。のんびりと平和で堕落した学生生活を送る身としては、映画ひとつとってみても、そこに込められたメッセージを読み解くことに腐心したり、否、それだけでなく、解釈や考察というものは製作者の意図のみに終始するものでなくもっと自由なものともなりうるという私の立場からすれば、それによって世界の視点を変えてみるよう模索していくことにしよう。
 結局陳腐なことしか書けなかった。もっと深くて味のあるコメントが書きたいと思いつつ筆を置く。